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テレビ出演等

平成22年11月4日更新

東京王はどのように市長を務めているか?(日本語訳4)

石原は3期連続で東京知事を務めており、東京都民からの期待も高い。無限の人気を誇る石原は如何にして東京都民の人望を得ているのか?

特別契約記者 黄文イ(「火へん」に「韋」)

 石原慎太郎といえば、人々の頭に自然と思い浮かぶ言葉が「日本の右翼」である。これは取り外しがたいレッテルであるが、石原慎太郎の身分は政治家だ。また政府官僚であり才能あふれる作家でもある。石原慎太郎は東京都知事であるが、その職務は北京市長に相当し、日本全国の5分の1の人口と経済を占めることからいうと日本における東京の重要性は中国における北京を凌いでいる。1999年から石原は3期連続で東京都知事に当選しており、毎回最高の得票数を得ているのだ。
 私は中国国内のマスコミ仲間にこう語ったことがある。「石原慎太郎は自分を職員と称している。東京都の住民として知事を選ぶならば僕は石原慎太郎に一票を投じるだろう。中国の市長たちも石原慎太郎のように市長を務めてくれたら中国の都市はもっと進歩し住民たちの暮らしもよくなるはずだ。」

なぜ石原慎太郎なのか?

 東京都知事を務める前、石原慎太郎は内閣の一員であり相当な知名度を得ていた。1976年、44歳の彼は福田内閣の環境庁長官に就任、55歳の時には竹下内閣のもとで運輸大臣を担当している。
 温厚で控えめな普通の日本人の性格と違い、石原慎太郎は豪快で率直、何をはばかることもない姿が人気を集めているが、当然口は災いのもとと言われるようにトラブルも少なくない。
 1999年、都知事選に出馬した時の石原は堂々と自己紹介した。「私は石原裕次郎の兄です。私は都民と国民を代表して革命を進めていきたい。」石原慎太郎の弟である石原裕次郎は早くに逝去した日本国民の永遠のアイドルであり、弟のブランドの助けも得て彼は好感度を得たのである。また日本で、石原慎太郎を除いて誰も“自分は国民の代表”だと宣言できた者はいなかっただろう。つまり彼の発言はすぐに民心をつかんだと言える。
 相手候補者に80万票以上もの差をつける圧勝で知事に当選した。このため政界であろうと民間であろうと“東京を治めるのは石原慎太郎しかいない”という声があふれたのだ。

 当選後まもなく、また彼は“都知事は2期務めなければ満足いく成果は上げられない”と言い放った。現在3期目を務める彼はまだその成果に満足していないようだ。
 第1期目の任期で、石原は“東京から日本を変える”をスローガンに、都民の暮らしの利益となり東京が全国をけん引する政策を打ち出した。たとえばディーゼル車走行規制、排ガス規制、認証保育所の制定、24時間365日対応の救急医療施設の設置、総合防災訓練の実施、債券市場の設立などである。
 石原慎太郎が街頭演説を行う時には、よく日本の思想家 福沢諭吉の言葉を引用する。「立国は公にあらず私なり。独立の心なき者、国を思うこと深切ならず。」これは石原慎太郎の施政理念であり、国家に対しては誰もが「自分がやる」という気概がなければいけない。日本人の一人一人に独立心がなければ国家としての進歩はありえない。まさにこの理念を抱いて、石原は歩みを止めることなく独自の改革を進めているのだ。2003年、石原は第1期を超える308万もの高得票で東京都知事に再選、歴史的記録を残した。石原の執政が人々の心をつかむ要因としては、彼はまず住民のためを考え、一般市民に利益のある政策であれば、たとえ国がNOと言っても断固実行することである。
 知事の毎月の公費項目、たとえば交際費などはすべてホームページ上で公開しており、毎回の海外出張費や出張目的・日程・随行人数と経費、出張による成果なども公表されている。石原慎太郎は頻繁に現場視察のため作業着に身を包み、ヘルメットをかぶってテレビの前に現れる。時にはヘリに乗って東京の遠方地区やほかの都道府県にも出向く。贅沢だとの批判も受けるが、彼は「効率のよさを優先したのであり、飛行機であればすべて見渡せる」と反論している。
 東京都が財政難に陥った時に、彼は自ら率先して給与を10%カットした。都市建設の分野では大型海岸拡張工事に力を入れ、陸地を海へと伸ばした。また東京の地方銀行と大学も創設するといった政策も、すべて全国を先取りしている。
 世界の大都市に比べて、東京は安全指数が高い。この点は石原慎太郎が重視する治安管理と犯罪撲滅とに関係がある。有名な東京新宿歌舞伎町は過去かなり治安が乱れ違法営業の店も多かったが、石原自ら先頭に立って秩序を整えることで犯罪も大幅に減少した。

庶民派の石原慎太郎

 東京都のホームページの「知事の部屋」コーナーでは、知事の仕事以外にも施政方針・記者会見・東京ビッグトーク・テレビ出演や知事の交際費などを知ることができる。そこには当然 石原慎太郎の映像も流れ、彼は最低でも毎月1度は絶えずまばたきをしながら親切に東京市民へ率直に語りかけている。9月に彼が語ったテーマは災害対策と群衆レベルのスポーツイベントの必要性であった。彼は東京都民に対して常に地震災害に備え、災害時には自らを守り社会で助け合うことを訴えている。
 毎週金曜日は石原の記者会見が行われ、記者からの東京都政にかかわる各種問題に対する質問に答えており、この内容はすべてネット上に公開されている。記者に対しての石原は十分手慣れたものである。時に記者からの意地が悪く憶測の域を出ないような質問に対しても、石原は容赦なく突っぱねる。「君の質問内容は東京とは何の関係もない、それではダメだろう。」しかし記者たちはやはりテーマの域を超えて石原に国政への意見を求める。すると石原も饒舌になり問われたことにはすべて答えるのだ。時には記者会見の終わりに、石原は自らをリラックスさせるためか次々とウィットに富んだ話を続ける。たとえば9月3日の記者会見の最後のことだ。ある記者が「今年の東京は特別な猛暑となり、多くのお年寄りが熱中症にかかりましたが…」と問うと、石原は間髪入れずに「そうだね。僕も夏バテしたよ」。記者はさらに「知事は今年の猛暑をどのように過ごされましたか?」それに答えて石原は「僕にとっては寂しい夏だったね。友達の家の大きなプールで泳いで帰宅してからビールを一杯飲んでベランダの椅子で眠ってしまったら風邪をひいてね。夏の風邪は治りが遅いんだよ。今でも風邪の後遺症から抜け切れてない感じだ。半分くらいは回復したんだが、おかげで寂しい夏になったよ。僕はもう年だから「太陽の季節」は嫌いだね。」
 この「太陽の季節」とは石原が大学時代の若さで芥川文学賞を受賞した著書の名前である。
 石原慎太郎は東京都知事に選出されてからすぐに”心の東京革命〟の理念を掲げている。2004年、東京がパラリンピック開催地に立候補した時にこの“心の東京革命”はブームの後押しを受けた。この理念は一種の社会運動であり、思いやりを提唱しボランティアを動員した奉仕活動を東京から全国へ、そして世界へと展開している。
 石原は以前、東京の人間関係が希薄であることを嘆き、“心の東京革命”の推進協議会会長の多湖輝と次のように語っている。「休日に犬の散歩をしていると、犬を連れている人に会いますよね。でも犬同士が挨拶してからようやく飼い主同士が挨拶するわけです。どうして犬が仲良くなった後じゃないと人間同士は仲良くなれないのか。私はこのことがすごく悲しく思いますよ。人間は犬ほど純粋じゃないんですね。」彼はまた隣人同士が調味料の貸し借りをしていた昔の人間関係の温かみを懐かしんでいた。
 石原慎太郎には自身の教育理念があり、常に学校教育に対して持論を展開している。彼は博愛と献身こそが人類最高の美徳であり、子供はまず自分のライバルを尊敬してこそ十分な友情が育つという。学校での勉強や体育では、子供はすぐにライバルを敵とみなすが、相手を憎むのではなく友情を抱くことで快く競い合うことができる。このような話を両親は機会あるごとに子供に聞かせるべきであると、彼は小中学校の道徳教育で提唱している。
 石原慎太郎は学校教育改革を重視している。彼が都知事に就任する前は東京都立の高校生が有名大学に合格する比率は決して高くはなかった。2001年、彼の主導で東京都は進学指導重点校制度を創設、これは中国の重点高校に相当する。この後、重点高校は毎年増え続け、教学レベルもこれに伴い上昇、東京大学などの有名校に合格する公立高校生は顕著に増加した。もともと日本には公立の教学レベルは私立には及ばないというイメージがあるが、東京都は改革を経て、私立校にも劣らぬ公立高校がますます増加した。公立学校の学費は私立校よりもずっと安いため、公立学校の教学レベルが高まったことで学生や保護者から大歓迎を受け、進学の選択余地もさらに拡大された。このため東京都民は石原都知事の教育改革に感謝している。
 近年来、日本は不景気のため、全国の例にもれず東京の失業人口も増加した。これに対し、石原慎太郎は“東京しごとセンター”を設立、若者への就職あっせんだけでなく中高年者にも就業の機会を提供しており、1年に1万人の再就職を手助けすることを目標としている。

妥協を許さない愛国者

 石原慎太郎は戦略に富んだ政治家である。彼は過去、幾度も中国に対する暴言を吐いてきたことは皆がよく知るところだ。だが日本の利益のためならば彼はなりふり構わず中国へ友好を示す。北京オリンピックの数年前、彼は何度も北京オリンピックの開幕式に出席したいとの願望を漏らしている。当然彼にはもくろみがあった。当時東京は2016年のオリンピック開催地に立候補しており、北京の支持が欲しかったのだ。
 石原慎太郎は毎月「産経新聞」のコーナーにエッセイを執筆している。コーナーの名前は「日本よ」だ。彼はこのエッセイで“憂国憂民”の心情を吐出している。たとえば「冲ノ島の戦略意義」、「近未来の日本の危機」、「10年後の東京」などだ。石原は以前、自ら冲ノ島に伏して地にキスし愛国者として日本人の心を動かした。深刻な日本の少子化に対しても「日本の人口が減少しようと、僕は何とかして東京の人口を増やしてみせる」と誓っている。
 最近日中の釣魚島での漁船衝突事故の中で、石原の発言は過激とは言えないものだった。9月10日の記者会見で、「釣魚島問題は民主党であろうと自民党であろうと試練である」と述べただけであった。
 9月17日の「産経新聞」で、東京都知事の石原慎太郎が10月16日に北京を訪問すると報道された。その目的は都市の持続可能な発展戦略に関する国際会議に出席するためで、世界の45都市のリーダーが一堂に会する。これが実現すれば、2008年に北京オリンピック開幕式に参加してから2度目の北京訪問だ。
 だがこの後、日中の衝突は激化し、石原は北京行きを断念、またも中国批判の道に加わっている。

(作者は日本の華文報紙に所属、東京在住)


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